伊達宗克(だて むねかつ)

【略歴】

昭和3818日愛媛県生まれ。夏目漱石の『坊ちゃん』で知られる旧制松山中学を卒業後、日本大学芸術科を経て同大法学部新聞学科を卒業。昭和298月、東京日日新聞社会部からNHKに移り放送記者となる。東京地裁、最高裁、法務省、宮内庁、警視庁、衆議院、参議院などの記者クラブ詰めや遊軍記者の後、社会部デスクとして司法、首都圏キャップを歴任。昭和4511月、親交のあった三島由紀夫から市谷台で事件の総てを明かし後事を託した遺書と檄文を受け取り、事件の目撃者となる。昭和554月、三笠宮寛仁親王の御婚約をスクープ。昭和564月、駒澤大学マスコミ研究所でマスコミ講座担当。昭和584月、三笠宮容子内親王の御婚約をスクープ。昭和594月、日本大学芸術学部講師。昭和608月、NHKを定年退職、同解説委員となる。昭和6110年、中京女子大学教授、同コミュニケーション研究所所長。生涯にわたってマスコミ各界の人材を養成する「伊達学校」を主催。昭和63115日、慶応大学病院にて逝去。享年59歳。

 

昭和631月 中京女子大学コミュニケーション研究所を伊達コミュニケーション研究所に名称変更。

 

【著作】

『裁判記録・三島由紀夫事件』『天皇の外交』『日本の勲章』『放送記者』『素顔の天皇』他

 

【伊達宗克の著作から】

 「ジャーナリスト志望の学生から、『放送記者の条件を聞かせてほしい』とたずねられることがある。実をいってはじめのうちはあまりにも漠然とした質問なので、何と答えてよいか戸惑ってしまった。しばらく考えたすえ、次のように答えることにしている。

 ――戦後、憲法によって言論、表現の自由が保障された。この保障は主権者である国民が参政権を有効に行使するためには、十分な情報が必要だということで認められたものである。このおかげで学者や評論家をはじめすべての文筆家は、自由にものが書けることになった。しかし、ジャーナリストには、不正を摘発し、問題を提起し、世論に訴えるという役目がある。だから、ジャーナリストには“表現”という作業以前に、もっと重要な“取材活動”が必要である。そして、取材の対象はあくまでも“人”。鋭いニュース感覚を持って、ニュースソースに食い込み、あるときは相手を安心させ、あるときには威圧感を覚えさせるなど、不屈の精神力で迫り、それでいて、信頼されるだけの能力がなければならない――と。

 “取材力”――それはジャーナリストの第一条件だと私は考えている。そして、取材する側とされる側の、全く相反した立場の間に生まれる“信頼関係”こそがすべてであると信じている。」

(『放送記者』りくえつ 昭和55年 8586頁)